第一章 総括 くわしいことは第二章で述べるが、私の、今度の事件を起こした動機を まとめておく。 1、エリートをねたむ貧相で無教養で下品で無神経で低能な大衆・劣等生  どもが憎いから。そしてこういう馬鹿を一人でも減らすため。 2、1の動機を大衆・劣等生に知らせて少しでも不愉快にさせるため。 3、父親に殺されたあの開成高生に対して低能大衆がエリートにくさのあ  まりおこなったエリート批判に対するエリートからの報復攻撃。  くわしいことは第二章をみていただきたい。特に動機の3は、これだけ ではよくわからないだろうから。  さてこの遺書(もし私が自殺する前につかまったときは告白とでもなる のだろうか)を今読もうとしている人へ言っておきたいことがある。あな たが教養があって、インテリと言える人なら、程度の差こそあれこれから あとの文に対して共感を覚えるはずである。だから頭からこの文を拒否し た姿勢はとらないでいただきたい。ことに私がこの遺書をコピーしてさし あげた朝日・毎日・読売の三大新聞の記者のかたへお願いしておく。なお、 この遺書の文は、もちろんのこと、自由に、さまざまな著作物へ引用して いただいて結構である。そのためにコピーまで作ったのである。この遺書 を少しでも多く活字にしていただきたい。 第二章 大衆・劣等生のいやらしさ  勉強ができることはそのまま社会で認められることにつながる。「認め られる」ことを望むのは人間の根本的な欲望の一つである。本能と言って もいいかもしれない。そして認められた人間に対して認められない人間が 嫉妬するのも半ば本能のようなものである。だから優者に対する劣者の嫉 妬が最も強いのは「勉強」の面においてである。勉強の出来・不出来が、 たとえばスポーツ等と違ってすぐに社会で認められるか認められないかに つながるからだ。だからスポーツに精を出して強くなったとしてもその人 は特に妬まれはしないが、「スポーツ」が「勉強」に変わると他の生徒は 途端に「点取り虫」などと騒ぎたててその人間をけなし始める。  勉強のできない者、すなわち劣等生は勉強ができる者、すなわちエリー トをねたむのである。また劣等生を持つ家庭はエリートの家庭をねたむの だ。エリートは言うまでもなく少数派である。このエリートに対して多数 派の大衆・劣等生はねたみの感情を持っている。嫉妬とは憎悪と密着した 感情である。嫉妬の対象を攻撃したいと、嫉妬する大衆は強く思う。しか し嫉妬とは極めてみにくい感情であるがゆえに大衆は自分達の、エリート に対するねたみを必死で認めまいとする。だがエリートは攻撃したい。そ こで彼等大衆は、なんらかの理屈をふりかざしてエリートを批判しようと する。こうすれば自分達の嫉妬を認めないで、エリートを攻撃することが できるからだ。だから大衆は新聞などに「受験戦争批判」「高校間格差批 判」「学歴偏重主義批判」といった記事がのったりすると、わが意を得た りとばかりに自分達もそう言った理屈をたてにとって少数派エリートを批 判するのである。  嫉妬している証拠に、「受験戦争反対」などと騒がれはじめてからかえ って受験熱は高まったではないか。受験戦争批判は大衆の心の底からの批 判ではなく、エリートへのねたみから発生したものにすぎなかったのだ。 大衆はエリートを批判している反面、なんとか自分の子供がエリートに仲 間になって欲しい、あるいは自分がエリートの仲間になりたいと思っても う必死なのだ。「乱塾時代」という言葉もあるが、これも、自分の子供が 言っていない塾に、他の親の子供が行っている、という不安をまぎらわそ う、うち消そうという劣等生の母親がすこしでも塾のことをけなそうとし て騒ぎたてた結果、ここまで広まったのである。  このように大衆は自分達の嫉妬にすぎないものを正当化してくれる理屈 にすぐにとびつくのである。その理屈が正しいかどうかなどはもう問題で はないのである。大衆の間ではただ大多数が支持する意見だというだけで その意見は「正しい」ことになってしまうのだ。エリートは少数派である。 そしてエリートをねたむ大衆は多数派だ。つまりエリートを批判する理屈 がいかにもそれが正しいような顔で世の中をしゃあしゃあとまかり通るこ とになるのだ。すくなくとも「受験」に対する社会全体の意見、すなわち 大多数の意見すなわち大衆の意見、すなわち非エリート人間の意見はその 意見・論理が正しいか正しくないかはまったく別として、大衆のエリート に対するねたみから成り立っていると断言できるのである。 「おちこぼれ」という言葉一つとっても私はそこに大衆の貧相ないやらし さを指摘することができる。「おちこぼれ」というのは確かに少しきつい 言菓だと言える。普通なら大衆は、このような自分達の劣等性を表すよう な言葉は無視し、抹殺してしまうものなのに、今回にかぎってなぜこの言 葉がひろまったのであろうか。実は、大衆が、この「おちこぼれ」という 言葉をひろめたのは、このきつい言葉は受験戦争からできたものなんだ。 だから受験戦争はいやらしいものなのだ、と自分達が言って満足するため なのだ。つまり自分達でわざと不快な言葉を作り出しその不快さをたてに とって、自分達が気にくわない受験戦争・エリート等を攻撃しようとして いるのだ。これは考えすぎなどでは決してない。感情をまじえずに論理的 に突きつめていけば大衆の心の底にこういうみにくさがあったことは利巧 な人にはすぐわかるはずだ。  さて大衆のいやらしさはとどまるところを知らない。大衆・劣等生は自 分達がなにかに手がとどかないと知ると逆にそれを自分は欲しくないのだ というような態度をとって自分をなぐさめ、納得させようとする性質を持 っている。劣等生でも勉強ができるようになりたいと思って努力している うちほ大変、結構だ。だがひらきなおって勉強をやめ、「勉強なんか、こ っちから捨ててやったのさ」などと言いはじめると実にいやらしい。不良 はみんなこのての馬鹿である。彼等とて一応は人の子だから本音としては、 一人前に人には認められたいし、先生にもほめられてみたいのである。と ころが、勉強があまりにできないためそれが全く不可能と知ると自分のそ のみじめな状況を認めたくないものだから、自分の欲求とは逆に、それま ですこしはやっていた勉強もやめ、なおさらグレる。つまり「勉強なんか できなくたってオレは少しもかまわねえよ。自分からやめたのさ、勉強な んか。」そう言って自分を納得させようとするのだ。心理学でいう「防衛 機制」である。さて、勉強(あるいは社会)から見捨てられたのを認めた くないので、逆にこっちから勉強を捨てたなどと言う自分達のみにくさを 無意識のうちに知っている彼等は仲間を求める。似たような者と一緒だと 「自分は社会ののけものだ」という気持ちから開放され「こいつだってオ レと同じなんだ」といタ安心感にひたれるからだ。不良グループ・暴走族・ ディスコ等は、みなこのてあいだ。自分に対する自信がないからこそ仲間 をつくって群れつどうのだ。「流行」も同じことで、みんな同じ服を着る ことによって仲間意識を作って安心しようというのだ。暴走族・不良グル ープが制服を作ったりするのも全く同じ理論だ。ここで「流行」について もう少しくわしく考えてみたい。この「流行」とはその範囲が「若者社会 全体」と広いので、流行にひたっていない人を「流行」にひたっている大 多数の集団の力で「おくれてるう」などと言って馬鹿にし、仲間にならな い人を否定するというカを持っているのだ。流行を追う人間=自分に自信 のない人間キ勉強のできない人間=大多数であり「おくれてるう」という 言葉は出来のわるい自分達の集団に属さない人間=確固とした自我を持つ 人間=出来のわるい人間からみると気にくわない人間を多数決的・集団的 なカで馬鹿にし否定しょうという言葉なのである。彼等馬鹿どもの武器は、 ただ自分達の人数が多いということだけなのだから。  同じ論理が、「社会全体」にもあてはまる。多数派の人間達はその唯一 のとりえである集団の力によって少数派エリートを攻撃しょうとしている。 この点で、集団の規模こそ違うもののエリートヘの嫉妬から「受験戦争反 対!」等とさけぶ大衆達は暴走族と似たようなものだと言えよう。  さて不良のことに話をもどそう。彼らは社会に適応しているまともな人 間がねたましくてたまらない。そこでまともな人間にからむのだ。そして 彼等がおびえる様を見て自分の劣等感を解消して得意になる。また暴走族 の馬鹿どもは特に始末におえない。彼等は変に「スピード」ということを 美化してみせる。「オレたちにとってスピードが青春だ」などと言ったり する。これは、「スピード」を美化することによって自分達が負け犬だと いう考えから逃げだせるからこういうことを言うのである。プロの選手な らとにかく運転テクニックも稚拙な暴走族風情が、なにが「スピードこそ オレの人生」だ。馬鹿もほどほどにしていただきたい。こんなことを言う ことによって自分達がなにやら崇高なことにうちこんでいるようなつもり になって満足したいのかもしれないがいくら言葉をひねくりまわしてもオ ートバイなど単なる欲求不満のはけロにすぎない。現実逃避だ。  大衆は自分達の手にとどかないものを批判して自分を納得させようとい ろいろ理屈をこねくりまわすのだが、いざ希望が出てくるとこの連中はこ れまでのポーズをあっという問に捨てて、あさましく走り出すからいやら しい。例をとれば「知的生活の方法」という本がベストセラーになったと いうことがある。この本が有名になる前に「私は知的生活をしたい」など と言えば「キザな」と言われたろう。本当は大衆も「知的」なことをやっ て自分がいかにも高級な人間になったような気持ちを味わいたいのだが、 自分がまったく「知的」でないことを知ると今度は「知的」なことをけな しはじめる。「知的」な人を攻撃しはじめる。たとえば、 「キザだ」 「おたかくとまってる」 「つんつんしやがって」 「かっこつけてやがる」 などなどである。「かっこつけてる」などと言つている以上自分でもその ことが「かっこいい」と認めていることになるのだがとにかく大衆は「知 性」が気にくわないので、けなす。このあたり、アホ生徒が秀才に「点取 り虫」などと言うのと全く同じである。通俗テレビドラマでも大衆受けを ねらつて大学教授といえば大きな屋敷に住んで、冷たい顔をしている悪役 になってしまう。これを見て大衆は「頭のいい大学教授なんて人間は悪い やつなのさ」などと思って満足するのである。それやこれやで大衆の間で 「知性」「知的」などという言葉は一種のタブーになってしまっている。 その時に「知的生活の方法」とくる。大衆はすこしおどろく。つまり、タ ブーを破られた快いおどろきとでも言おうか。そしてペ−ジをめくってみ ると「あなたにも知的生活ができる」などということが書いてある。これ までムキになって「知性」を否定してきたのは自分の手のとどかないとこ ろにある「知性」に対する強いあこがれを抑圧するためだったと言える。 そのあこがれ、必死で抑えてきたあこがれをこの言葉が快く刺激した。 「そうだ!私にも・・・私にも知的生活はできるんだ」というわけだ。 「知的生活の方法」のヒットには多分にこの大衆のみにくい心理に負うと こちが大きい。今度の事件も私が名門校生であるだけでなく学者一家の一 員と知って、大衆は「知的家庭」への反感から、「いくら頭よくたってた だのキチガイさ。」などと言おうとするかもしれない。 「正(まさ)ちゃん、よかったね。学院の試験に受からなくて。こんなキ チガイのいる学校なんか行かないですんでよかったよ」などと言って学院 の入試に落ちた生徒の母親は自分達を必死でなぐさめようとするだろう。 また学院に手もとどかない劣等生達もそれみたことかというような顔つき で得意になって言うだろう。「勉強ができるからってなんだ。ただのキチ ガイじゃないか」いくら理屈をこねまわしてみてもねたみはねたみ、優越 者は優越者、劣等人間は劣等人間である。勉強の面での自分達の劣等を素 直に認めればよいのだ。それを、勉強が社会的地位とつながっているもの だから妙にひねくれ「勉強だけが人生じゃない。」などと理屈をこねるか らみにくいのだ。勉強だけが人生じゃないなどというのはあたりまえのこ とだ。そのあたりまえのことを持ち出してくることからして嫉妬の臭いが プンプンである。勉強のできぬ者ができる者に、その人間が勉強ができる ことについての批判のようなことを言った場合、その批判がいかに正しく てもそれは「頭が良くても人間として駄目ならそいつは駄目だ」という言 葉は、あまりにも大衆の中にしみ込んでしまいもはや慣用句のようになっ ているから、なんの批判もなく大衆はこの言葉が正しいと信じているよう だが、実はこの言葉にも実に汚ならしいねたみが含まれているのだ。この 言葉の「人間として」という部分を考えてみると、これは「やさしさ」と か「心のあたたかさ」その他のことを表しているのだろうが、すると「頭 のよさ」は「人間として良い」ことに入らないのだろうか。さらに「頭の 良さ」より「心のあたたかさ」のほうが尊いなどと無条件に決めつけるの はおかしい。これは両方とも同次元、人間の長所という点で同次元ではな いか。少し考えればこれくらいすぐにわかる。それなのに大衆が無条件に この言葉を受け入れたのは、この言葉が彼等のエリートすなわち頭のよい 人間に対するねたみを正当な批判のようにみせかけてエリートにぷつける ことができる言葉だからだ。「頭の良さ」より「心のあたたかさ」が尊い と思い込むのは「心のあたたかさ」ほ「頭のよさ」とちがって大衆に劣等 感をおこさせないものだからである。自分に劣等感を起こさせるものより 起こさせないもののほうが価値があると主張するこの言葉が馬鹿な大衆に は耳ざわりが良かったのだ。この言葉は大多数大衆が、自分達の気にくわ ないエリートを「人間としてだめだ」ときめつけ、うさをはらす時に使う ことができる。そういうわけで大衆は喜んで、この言葉を使い始め、つい には、それがまるで真理であるかのような錯覚に自らおちいってしまった。 この言葉一つでエリートからの劣等感から解放されその上にねたましいエ リートをわけ知り顔で批判できるのだ。「顔より心」などという言葉もま るで同じ。女性の「容姿」と「心」は絶対にどちらのほうが価値が上と決 めることはできない。それをいとも無雑作に「心」に軍配をあげたこの言 葉がもてはやされたのは大多数の女性が不美人だからである。「内面」の ほうが「外面」より価値があるというもはや固定観念のようになってしま っている考えはよく考えると、外面が劣る人間が外面の美しい人間に対し て持ったねたみから来ていることがわかる。外面の優劣はすぐにつくが 「内面」はそう簡単に優劣がつかないのである。そこで外面が劣る者は 「内面」をたてにとり自分達の劣等感をはらそうとするのだが、そういう 彼等の「内面」は外面が美しい者へのねたみにこりかたまっていて彼等の 外面以上に汚ならしいのである。  あらゆる難誌・TV番組は大衆に受け入れられるかどうかが命のわかれ めだ。そして大衆はこれまで述べてきたように勉強についてだけでなく、 すべての面にわたって、優越者へのねたみにこりかたまっているみにくい 存在だ。この大衆に受け入れられるためには、雑誌・TV番組は大衆にあ わせてみにくい低次元に堕ちねばならない。すなわちある種のショー番組 等に象徴されるように大衆の手のとどかないところにある存在をこきおろ して大衆を満足させたり、あるいは歌手に与える賞でも、会場の若い観客 に一般審査員などと称して、その賞をどの歌手に与えるかの決定権を握ら せ、普段は彼等、普通の若者には手のとどかない存在である同年代の歌手 に対する優越感をいだかせて満足させたりするような実にいやらしい方向 へと進んで行く。雑誌でも同じ。ある種の、というより全部の女性向雑誌 のいやらしさは、そのまま女性のいやらしさに直結する。  さてまた話を変えよう。どうもあっちこっち話がとんで申しわけない。 まあ今、これを読んでいるのが馬鹿な劣等生とか、そういうどうでもいい ような人間ならこんなことを書く必要はないのだが、尊敬に価するような 人が読んで下さっているのかもしれないので書いたのである。さて、こん な話がある。ある小学生が必死に努力して勉強ができるようになった。だ が他の生徒も努力したため彼の成績は上らなかった。彼は成績が上ると期 待していたが上っていないのを見て泣き出し、その後グレてしまった。こ の話を聞いて大衆がどう言うかというと「かわいそうに。結果より努力で 成績をつければいいんだ。」こうである。この「結果より努力が大事」と いう言葉はこの小学生に対する同情というよりも、自分達大衆が努力して も手のとどかないエリートヘの無意識的な攻撃のあらわれである。前の 「頭が良くても云々」と全く同じ発想だ。結果で負けたのを「努力したの だから」と言って挫折感を減らそうとするばかりかその「努力」のほうに 価値があるように言って自分を満足させようというわけでこれは心理学で いう「合理化」である。この言葉ができる前は大衆は当然のように「結果」 を重視していただろう。そこに「結果より努力」という言葉が出てくる。 大衆は馬鹿だから自分達の常識がちょっとだけくつがえされていると、さ すが論理的だ、などと思って喜ぶ。大衆は一見、理屈に反するようなもの を論理的で高級だと感じるのである。その上に自分達がこれまで「結果」 の勝利に対していだいていたあきらめの念をふき飛ばし、自分達大衆に味 方してくれそうなこの言葉に、これだ、と思って飛びついたのである。い まではなにやら真理のように思われているこの言葉ももとをただせばこん なものである。「思いあがるな」「うぬぼれるな」「のぼせ上るな」これ らの言葉も同じ理由でできた言葉で、よくみればみんな嫉妬の感情が含ま れている言葉である。ところが、ここがまた大衆のいやらしいところであ るが、大衆はこれらの言葉を多用することによってこの言葉からねたみの ニュアンスを消してしまったのである。かくして誰もが、自分のねたみを 認めることなしに、ねたむ相手を公然とけなすことができる言葉が誕生す る。完全に立場が上の人間が下の人間に向って使場合を除いて、これらの 言葉が使われるところ常に嫉妬あり、である。  大衆のみにくい嫉妬はいくらでもみつかる。たとえば美人とブスの関係 である。また同性タレントに対する嫉妬もひどい。特に女の場合はすさま じい。まさに嫉妬心がむきだしである。これは自己顕示欲が特に女性に強 いということに関係があるのだろう。歌謡曲の女性歌手に女性ファンはほ とんどいないのに対して女性フォーク歌手には女性ファンが多いのもうな ずける。なぜならば、フォーク歌手は歌唱カがその歌手の価値判断の基準 になるため容貌・スタイルがそれほど問題にされないからである。女性フ ォーク歌手に対してなら女性達はそれほど劣等感を刺激されないのだ。そ れに対して歌謡曲の女性歌手は正に容貌・スタイル中心だ。不美人の女性 達は女性歌手の肢体からあふれでる女性の魅力がねたましくてならないの である。さらにあとで述べる馬鹿な人間特有の変な「深刻好み」「苦悩好 み」「悲愴好み」からフォークがなにか高級なもので、歌謡曲はフォーク より幼椎だ、というようなムードがなんとなく若者の間にただよっている ためフォーク・ファンの女性達は容貌・スタイルともに自分達とはくらべ ものにならないほどすばらしい歌謡曲歌手に対して「歌謡曲なんて幼稚よ」 という態度をとって、自分達の劣等感をうめあわすことができるのである。 しかも自分は女性フォーク歌手は認めるが、女性歌謡曲歌手は認めないと いう態度は、(すなわちこちらは認めるがあちらは認めないというような 態度は)いかにも自分がはっきりとした価値判断の基準を持っているよう でえらくみえるし、こちらの女性歌手は認めてるんだから自分は女性歌手 に対して嫉妬なんかしていないのよ、というような言いわけにもなるので ある。なんとみにくい不美人のひがみ板性であろうか。嫉妬するだけでも 充分いやらしいのに、そういう自分、嫉妬した自分を恥じるどころかその 嫉妬を正当化し、嫉妬の対象を攻撃するとは一体、どういう精神なのだ。 ここまでいやらしくなってくるとちょっと言葉が出てこない。  思春期には自意識が急に強くなり同時に他人に対する優越欲も強くなる。 ということはつまり嫉妬心も強くなるということだ。電車の中などで三流 高校の生徒が我々名門高校生に向ける敵意の眼差し、あるいはことさらに 無視してみせた態度はこの嫉妬心から出たものである。我々エリート校生 は馬鹿高校のひがみに気づいているから陰であざわらっている。アホ高生 徒はエリート校生批判の投書がのったりするともううれしくてたまらない のである。そして新聞は当然学歴偏重を批判するもの、すなわちオレタチ の味方だ、と思い込む。この前、ある名門校の生徒がスポーツの試合の最 中に「くやしかったらT大入ってみろ」と言ったのがよくないと言って新 聞に投書してきた劣等高校の生徒がいたが、彼はなぜ新聞にこんなことを 書いてきたのか。この心理を分析してみれば、進歩的な受験批判をしてい る新聞だから自分の味方になってくれてこの投書をとりあげてくれる、す なわち認めてくれるにちがいないとこの劣等生がたくらんだからと言えよ う。つまり新聞を劣等生のひがみを正当化するために使ったのである。エ リート高生に馬鹿にされたくやしさをはらそうとでも考えたのであろう。 あれがひがみでなくてなんであろうか。「T大入ってみろ」は単なるヤジ にすぎないではないか、それを妙に深刻にとらえ新聞に投書までしてきた のは、つまりT大=勉強=社会的地位というふうな等式が成り立って、そ れまでその劣等生が持っていたひがみに火がついたからだ。そしてこの劣 等生は前から「受験戦争反対」だの「頭が良くても人間として駄目なら駄 目だ」などという自分に都合のよいへ理屈ばかりを読んで信じ込んでいた ため、自分の単なるねたみにすぎない感情を妙に深刻にとらえてみせ、そ してそれを新聞にとりあげてもらうことによってなおさら正当化し、自分 の劣等感を解消し、それだけでなくねたましい名門校生を新聞を使ってけ なし、ウサをはらそうとしたのだ。「T大云々」は単なるヤジにすぎない のにそれを急に深刻にとらえたのはこの劣等生が相手名門校にねたみを持 っていたからに間違いない。前にも書いたようにライバル意識旺盛な思春 期に名門校と劣等校がぶつかればそこには必ず優位と劣位が生まれる。つ まり嫉妬が生まれるのである。とにかくこの劣等生のねたみまみれの心理 のいやらしさは筆舌につくしがたい。これはもう劣等生などではなく劣等 人である。そしてこの劣等人の投書を読んだ他の劣等生はどう言うか。 「ソウダヨナ。アイツラヨクナイヨ」などとしたり顔で言うのに違いない。 この投書をした劣等人はそういう仲間と新聞を通じてつながり、その仲間 を使って、大多数劣等生及びその家族、すなわち大衆の集団のカで少数エ リートを単なるひがみのためにけなそうとたくらんだのである。どこかの 家庭の父親が、わけ知り顔で、こんなことを言うかもしれない。「ヤジだ ってね。言っていいことと悪いことがある。」馬鹿野郎。ヤジはヤジだ。 それがいくらてめえら劣等人種の胸に突き刺さったとしてもそれはそのヤ ジが悪いのではなく、ねたみにこりかたまったきさまらが悪い。結局はお まえらがみにくいのだ。ひがみ根性がなければ「T大入ってみろ」のヤジ だってただのヤジとしかとらえられないはずだ。ところがきさまら劣等人 はこのヤジを聞くなりシュンとなったんだろう。これは、おまえらが相手 名門校に対して劣等感を持っていたという証拠ではないか。ねたんでいた という証拠ではないか。どうだ劣等人種ども、なんとか言ってみろ。どん な反論をしてきたって結局はおまえらがねたんでいたんだということに変 わりはないのだ。だいたい名門校のエリートに向って変な理屈をつきつけ てくるとはどういう神経だ。きさまら、我々エリートに理屈で勝てるとで も思っているんじゃないだろうな。思い上がるのもいいかげんにしろ。 (「おもいあがる」という言葉はこのように使うのが正しい。)私はわか っている。その名門校生のヤジは相手劣等校生の自分達に対するみにくい ねたみを見抜いた名門校生がそのみにくさに腹を立てて、劣等人種の心に 突き刺さるようなヤジを考えだしてわざとさけんだものなのだ。まことに すぐれた読みだと言わねばならない。エリート同志、こういう気持ち、す なわち劣等高生の名門高生に対するねたみのみにくさへの激怒の気持ちは 実によくわかる。今回特にいやらしかったのはその劣等人間が自分の理屈 は正当なのだということを、自分の投書を新聞にのせることによって確認 し、満足しようとしたことである。ねたみを正当化するために、普段から 学歴主義批判をしている新聞、この劣等人間がオレノ味方ダと思っていた 新聞を利用するとはなんと汚ならしいやり方であろうか。そしてこの劣等 人の、自分の投書が新聞にのったと知った時の満足した顔、またこの劣等 人が学校で他の劣等者達から「英雄」にまつりあげられているところを想 像しただけで私は吐き気がしてくる。とにかくいやらしいのはこの劣等人 の心理構造だ。普段から「エリートは思い上っている」などという文を読 んで満足していたこの劣等人は「くやしかったらT大入ってみろ」と聞い たとたんに「エリートの思い上り」に短絡的に結びつけて、「あっ!この 生徒は思い上ってる。新聞に投書してやろう」と思ったのだ。なにが「エ リートの思い上り」だ。そんなものはきさまら劣等人種がエリート憎さの あまりかってにでっちあげたものなんだ。「くやしかったらT大入ってみ ろ」と聞いて「あっ。こいつはいけないことを言った。」と思いこんだこ の劣等人は普段からエリートへのねたみを認めまいとして「エリート批判」 にすがりついていたのだ。  さてこれまで大衆・劣等生達の嫉妬にまみれた心理を書いてきたのだが 今度は大衆の変な深刻好み・悲愴好み・苦悩好みの心理のいやらしさを書 こう。大衆は深刻さ、ことに「義務の探刻さ」を好む。そして厳粛な顔を したがる。「青春の苦悩」「失恋の悲しみ」をうたったフォークソングが 若者に受けるのもそのためだし、原爆と全く関係のない若者が「我々はあ の惨劇をくり返してはいけない、決して!」などと倒置法を使って悲痛ぶ ってみせるのもこのため。これは、原爆をダシに使っているのだと言える。 さらに言えば悲劇の存在もこういった心理に負うものである。「悲しい」 のはいやな感情のはずだが、ではなぜ人々は悲劇を見に行くのか。悲しみ たいからである。映画館の中で悲痛な顔でかぶりをふりながら涙をだらだ らと流してみたいのである。この気持ちには一種の自己愛に通じるものが あり自己愛旺盛な女性が悲劇を好む理由もこれで納得できる。誰かが自殺 したと聞けば、そらきたとばかりに「我々は生き続けねばならない・・・・ どんなに・・・・どんなに苦しいことがあっても!」等と倒置法を使って 言う。これは「義務の深刻」の快感である。また自殺者について「甘えて たのだアイツは」とか自殺はヒキョウだ」だの「アイツは悲劇の主人公の つもりだったのだ」だの言うのも妙に厳しい態度をとって深刻ぶりたいか らである。自殺者をダシに使って自分達は「深刻の快感」にひたろうとし ているのだ。なにが「悲劇の主人公のつもり」だ。そういう人々はおおか たなにがなんでも生きていくぞ式映画か深刻大悲痛反戦映画の主人公のつ もりなのだろう。「あえて、いばらの道を行く」だの「青春は苦しい。だ けど生きるんだ!」等という言葉もみなこのたぐい。「あえていばらの道 を行く」などと言って、まるで安易でない道を進んで行くようなムードだ が実はこいつらは深刻さの快感に安易にひたりきっているにすぎないのだ。 「青春は苦しいけど、生きるんだ!」も同じで、別に青春とは苦しいもの ではない。何世代か前の人は戦争やらなにやらで苦しかったのだろうが今 は生活にはなんの不自由もなかったはずだし、精神面のことを考えてみて も今の若者が苦しんでいるなどとはとても考えられない。こいつらはただ 深刻ぶりたがって苦しくもない青春を苦しいなどと言ってイキがっている にすぎないのだ。ただそれだけのことなのに馬鹿な若者どもはそれが妙に 高級であるかのごとく取りちがえ、妙に悲痛をきどった、言ってみれは 「苦悩フォークソング」などというものを歌って深刻ぶってそれがかっこ いいと思っているのだから全く救いがない。大人がフォークソソグを馬鹿 にすると「古いなあ」などと言うが、この馬鹿め、それではきさまらの言 う「新しい」ものとはなんだ。つまり「馬鹿な」ものではないか。極めて 安易な感情に安易にひたりこんで、そしてそれがいいことだと思っている。 そして馬鹿は馬鹿同志、うじ虫のように群れつどって安易な感情に対する 陶酔を「フィーリング」などとぬかして得意になっていやがるのだ。そう いう自分達の馬鹿なところを指摘されても恥入るどころか「古いなあ」 「馬鹿にゃわからねえよ」「点取り虫になにがわかるか」などと言う。な にが「なにがわかるか」だ。カラッポのきさまら低能の頭の中の何を「わ か」れというのだ。なにもないじゃないか。あるとしたらみにくい嫉妬と 劣等感が転化した変なきどりだけじゃないか。そんなものが「わか」って たまるか。  ただな、こういうふうにきさまら馬鹿の心理を理解することはできるん だぜ。でもそれはおまえらの言う「わかる」とはちがうだろう。おまえら の言う「わかる」とは、つまり「共感できる」という意味なのだ。この低 能めが。きさまらの嫉妬や劣等感にエリートが共感できてたまるか。深夜 放送だのなんだのでおまえら好みの番組をやるもんで調子にのってるんだ ろうが、マスコミとてもただの商売だ。人気がとれなきゃそれまでだ。だ からきさまら馬鹿のごきげんをとりむすぶような馬鹿番組だけやるのだ。 それに乗せられて調子づきやがって、馬鹿が。 「義務の深刻」好みの心理を分析してみると、まことにいやらしい。義務 というものは責任に通じる。つまり「戦争の惨劇を二度とくりかえさない というのが我々の義務だ」だの「自殺してはいけない。どんなに苦しくて も生きるのだ。それが人間の義務なのだ。」などという言葉は自分達に義 務がある、すなわち責任があるということを表す言葉なのだ。自分に責任 があると感じるのはいやなものではない。自分が責任を持たされていると いうことは自分の人格がその責任を負うだけの価値があると認められてい るということにつながるのだ。しかもこの場合の「責任」とは、いくら深 刻な顔をして騒いでみたところで、果す必要のない責任なのだ。「自殺し ない」「戦争はよくない」と言っているだけで他に何もする必要がない 「責任」なのだ。  大衆の深刻・厳粛好みが高じると、もっとイヤらしくなってくる。実際 に正しくないことでも、それが深刻な口調・文体で語られただけでそれが 正しいと信じ込んでしまうのだ。それだけでなく一見論理的につじつまが あわないものを、その非論理性のゆえにかえって深遠な意味があるように 思い込み、深刻・深遠好みからすぐに信じ込み、悟りきったような顔で人 にしゃべってみたりする。たとえば「人間は不完全であるがゆえに美しい。 」などという言葉をよく小生意気な女子学生がほざいたりするが、この言 葉が正しいかどうかはともかく、この女学生の心の底に非論理性=深遠= 高級という公式があるのは確実だ。完全より不完全がいいというのは一見 非論理的だからだ。私が中一の時にこの言葉をいった馬鹿な女の同級生が いたがこれもその手合いだろう。また深遠好み・非論理好みは次のような 場合にも実にいやらしい表れ方をする。二人の人が哲学的な議論をしてい て一人が相手に対して論理的に全くすきのない反論をしたとする。すると もう一人はすこしもあわてず、悟りきったような顔をしてこう言うのだ。 「人間はね、論理でわりきれるもんじゃありませんよ。」あるいは「まあ どう言ってみてもね、人間は結局は[ ]ですよ」[ ]には何がはいっ てもいい。たとえば「愛」などという語がふさわしい。さて、これらの言 葉はなにやら論理を超越した深遠・神秘的な響きがあるようにみえる。こ の言葉を言った人はこの言葉によって論理の追求をのがれ、それと同時に、 いかにも自分が悟りきっているような顔をして相手を見下すような態度を とろうとしたのである。こんな言葉で論理の追求から逃げようとしても、 この私の目はごまかされない。なにが「結局は」だ。全然「結局」じゃな いじゃないか。馬鹿。こういう言葉の魅力にも、最近の馬鹿な若者はひっ かかって自分でそういう言葉をひけらかして得意になっている。この馬鹿 らしさには我慢できない。  大衆のこういった深刻好みと嫉妬がまざるとどうなるか。深刻顔の学歴 偏重主義批判になるのである。だから新聞も自然と深刻な受験戦争批判を やりはじめる。大衆が喜ぶからである。今度の事件でもあの「開成高生事 件」の時のように深刻な受験批判だのなんだのを喜んで大衆はやるにちが いない。馬鹿め。  こういうふうに論理的に自分達のみにくい心理を指摘された大衆はどう いう反応を示すだろうか。自分達のみにくさを認めるだろうか。とんでも ない。なんとかして自分達を正当化しようとして必死でエリートを攻撃し てくる。例をあげてみよう。 (1) こちらの言うことを全く無視するか「ああ、そうかそうか」等と言っ て「ああ、なんとでも言えよ。こっちは気にしないよ。君みたいな子供の 言うことは」といった感じの態度を示す。この相手の言い分をなんでも認 めてやる、という態度は優越の態度である。つまり相手の追求をのがれ、 しかも相手に優越できるというまことにいやらしいやり方である。 (2) 「どう言ったって結局キチガイのたわ言さ」等と言って論理を頭から 無視する。 (3) 私の文の中の小さなミスをとり上げて針小棒大にあげつらい全体の文 をも否定し、無視する。 (4) 「別に不愉快じゃないよ、こんな事件。」などと言って、私が事件を おこした目的、すなわち少しでも大衆・劣等生を不愉快にさせるという目 的が達せられていないように言い私の起こした事件を無価値と断じて、自 分の不快感を押えようとする。 (5) エリートの中から私に対する反対者を探し出してその人の意見を大げ さに取り扱い「エリートだって別に大衆を馬鹿にしているわけじゃないん だ。あの男はただのキチガイだったのさ」などと言って自分達の不快感・ 劣等感をはらそうとする。 (6) すぐ忘れてしまう。  等々、きたならしい大衆はいくらでもいいのがれの方法を考えだすので ある。だが私の起こた事件が大衆にたまらない不快感を与えることは充分、 わかっているので私は痛くもかゆくもない。ざまあみろ。  さて大衆の、エリートへの攻撃に話を戻そう。現代のエリート学生には 上品で繊細で線の細い神経質な人間が多い。これは知的で静かな環境で育 てられてきたエリートの特徴である。そのエリートに向って野卑で図太く 無神経な大衆が恥じらいひとつ見せずにみにくい嫉妬をぶつけてくるので ある。大衆は、よくエリートは我々大衆を虐げているなどとはざきやがる が、それは逆だ。きさまら大衆が、そのただ一つの武器である集団カをた てにとってねたみをむき出しにして(あるいは、へんにこねまわしてねた みを隠しているつもりかもしれないが、エリートの目から見ればそんな化 けの皮はすぐにはがれる)エリートにぶつけているのを忘れているのか。 このほうがよっぽどいやらしい。大衆独特の貧相でじめじめしたいやらし さだ。線の細いエリートは愚純馬鹿の大衆の無神経さ、無言の敵意等のみ にくさに圧倒されて駄目になってしまうことさえある。「駄目になる」と はこの場合、特に自殺を指さない。とにかくエリートの挫折には自分の能 力に限界を感じて、などという理由の他に、大衆の無言、無形の敵意・ね たみが無意識のうちに重荷になって、という理由がかなりの比重を占めて いるのである。ところがきさまら大衆は自分達でエリートをねたんで迫害 し破滅させておきながら、その破滅の原因となったエリートの線の細さが にくわない。なんとなればそれはエリートの特徴の一つだから。線の細さ は大衆に縁のない上品さにつながるものだから。それが大衆にはおもしろ くない。そこで彼等劣等人種はどう言うか。 「甘えてたのさ」 「子供だね」  ここまでくると、このみにくさはもう形容する言葉を持たない。現代に おいて少数派は常に悪なのだ。迫害されているのはエリートじやないか。 医者を例にとってもそうだ。医者がちよっとでも誤診をすれば大げさに騒 ぎたて、大衆は患者の肩を持つ。これは医者が少数派で、金をもうけてい るエリートだと思って大衆が嫉妬しているからである。そこで医者が少し でもミスをしようものなら、ここぞとばかりにしつこくあげつらい、高い 慰謝料を要求する。そしてそれが当然だと思っているのだ。この大衆根性 のいやらしさにはおそれいる。「開成高生事件」の時だってそうだ。大衆 は妙に大げさに騒いだが、別にあの事件自体はあれはどまで大騒ぎをする ほどの事件ではなかったはずだ。それがあんな大騒ぎになった理由はただ 一つ。殺されたのが開成高校の生徒だったからだ。家庭内暴力をふるった のが開成高校生だったからだ。エリートだったからだ。この事件をダシに して大衆は「いくら勉強ができたって気が狂ってちゃ駄目なのさ。あはは は」などと言ってエリートへのねたみをはらそうとしたのだ。大げさに騒 いでエリート批判をしたかったのだ。大衆の家庭でどんなにみにくい嫉妬 の言動がくりひろげられたかは想像するに余りある。そして気の毒なのは あの開成高校生だ。そしてあの事件があってからしばらくは、まわりの劣 等高校の生徒のさも小気味よげな視線に耐えて登校しなければならなかっ たであろう開成高校の生徒の人達だ。これはもう、集団の暴力だ。  私は家族にすさまじい乱暴をはたらいたあの開成高校生の気持ちがよく わかる。彼の家族への憎しみ、そして(これは報道されなかったが)馬鹿 な大衆に対する憎しみが私には自分のもののようによくわかる。彼が両親 に向って叫んだ言葉「教養も社会的地位もないお前ら夫婦が一人前に説教 できるか」からも馬鹿な劣等人種への憎しみが伝わってくる。彼は私と全 く同じ気持ちだったのだ。  彼は、大衆の、エリートに対する無言のねたみ、反感などに対して激怒 していたに違いない。劣等人種、馬鹿、低能に対する憎しみである。そし てこれがまた肝心なことだが、こういった憎しみ・怒りは大衆のあまりの みにくさゆえに言語で表現するのが極めて難しいのだ。私もこれまでのこ とを書くのにかなりの苦しみを味わわねばならなかった。だが私はあの開 成高校生の恨みをはらすためにもそれをやってのけた。あの開成高生は憎 しみを言語で表現しないで家族への暴力という形で表現しようとしたので ある。彼の次の一見、謎めいた言動もそれを表している。教師が彼に「一 流大学進学がすべてではない」と言ったとき彼は不自然なまでにこう強調 したという。「東大進学の圧迫感なんてない。」これはちょっとみために は、彼が実は東大進学を重荷に感じていた、というようにとれるのだが、 事実は全く正反対。彼は本当に進学のことなど念頭になかったのである。 家族と大衆が憎かっただけなのである。そのやりばのない怒りを担任に単 なる進学の重荷が原因だととられたのが彼はたまらなかったのだ。自分の 激怒がありきたりの進学問題にとられてしまうのがたまらなかったのだ。 私には彼の気持ちが本当によくわかる。彼は激怒を家族にぶつけた。もう 少し時間があれば彼のほうが両親を殺すことができたろう。ところが彼は 自分の怒りを充分表現できぬまま、彼が心の底から憎みぬいていた父親に 殺されたのである。どんなに彼が無念だったことか。彼の母が自殺した時、 彼は地獄の底で声をあげて笑ったにちがいない。今、私は彼の怒りの分ま でをここに書きつけているのである。彼がいかに無念のおもいで死んでい かねばならなかったか、私にはわかる。そして彼の無念の死さえ、彼が憎 みぬいた馬鹿大衆の、エリートに対するねたみをはらすダシに使われてし まったのである。だが今、私が彼の恨みまではらしてやる。愚鈍で馬鹿で 嫉妬深くて低能で貧相な大衆に虐げられたエリートの激怒の恐ろしさを今、 私が彼に代って大衆に思い知らせてやる。無言のまま死んでいかねばなら なかった彼の恨みを今、私がはらしてやる、大量殺人という手段によって。 そしてその遺書によって。その開成高生の父母は「勉強を強制したことは ない」と言っているが私はこの言葉にも激しい憤りを覚える。その通り彼 等は表面では「勉強しろ」とは言わなかったかもしれない。だがそれがそ のまま強制しなかったことにはつながらない。私の場合と全く同じだ。 「勉強しろ」とあからさまには決して言わない。だがちらっとした目線の 動き、一見なにげなく見える言葉・動作・目つき・まばたき、そういった ものの一つ一つに無言の圧力がかかっているのである。こういった目つき、 動作による圧力はそれをやる本人も半ば無意識のうちにやっていることが 多いから無神経にも彼等は息子に強制していることに気づかない、いや気 づくまいとする。それで「強制しなかった」があるものか。その開成高生 はそういったことにも激しい怒りを感じたに違いない。こういう怒りも言 葉では表現しにくいものだ。表現しても被害妄想だなどと言いかえされれ ばそれまでである。なんといっても表面上は全く強制していないというの が強いのだ。ここでも私やその開成高生の激怒が爆発する。あの開成高生 をああまで追い込んだ責任の一端はこういう両親のあくどさにある。それ をなにが「なぜこんな子になったのだろう。」だ。ふざけるな!  とにかく大衆は馬鹿だし劣等生は馬鹿だし若者は馬鹿だ。若者と聞いて またいくつかいやらしいことを思いだした。彼等はすぐに「青春っていい もんだ」式の感情論に飛びつくのでいやになる。彼等には知恵がない。論 理的に考えることができない。不愉快なものは無視してしまう。そして舌 ざわりのいい感情論をさも高級な哲学のようにふりまわす。「仲間ってい いモンダ!」馬鹿者。おまえらみんな低能だ。うじ虫め。左翼学生も最低 である。こいつらの心の底には深刻好み・義務好み、自分を認めてくれな かった学校・父親に象徴される社会への憎しみといったものしかない。し かもそれを認めずへんな理論をふりまわして自分を正当化する。体制が自 分を認めてくれなかったというので体制を攻撃しようというのだ。つまり どう理屈をこねてつっぱってみてもこいつら左翼学生は父親に反抗する第 一反抗期の幼児と全くかわらないのだ。低能である。  また、電車の中で私と同年の他の高校生が私に対して見せる態度と、そ の心理の動きは私の顔色を変えるほどいやらしい。特別付録(付録の付い た遺書はめずらしいでしよう。)の写真を見ていただければわかるように 私はいかにも秀才という顔をしているし、上品なお坊ちゃんというかんじ もする。それに目つきが冷たい。まあ美男子でもある。これだけで私に対 して「気にくわねえ」という目つきをむけてくる高校生が実に多い。何の 屈折もなくねたみ・反感をむきだしにするその精神の恥しらずな構造に驚 かされる。さちに、私は最近、一種の威厳というか、殺気のようなものを 身につけた。憎悪に四六時中こりかたまっていればこうもなるのだろう。 この威厳によって他の高絞生は自分達が無言の圧力を受けているように感 じさせられるのだろう。彼等は劣等感をさらに刺激される。そしてそれを 認めたくないがゆえにかえって攻撃的な態度にでる。にらみつけてくるの である。ところが私はそんなことにはビクともしない。逆にやつらを怒ら せてやろうと思ってにらみかえす。私が人をにらみつける時の目つきの恐 ろしさは友人が保証している。私ににらみ返されて劣等感を刺激されて、 駅でドアが開いた時に電車から降りるとみせかけて他の車両に乗り込んだ いかにも不良馬鹿という顔つきの高校生がいたが、いい気味である。さら に私が車内で単語帳を開くと彼等は横目でちらちらとその内容を探ろうと する。つまり、単語帳の中に自分の知っている単語をみつけ出して、ああ こいつ偉そうな顔しててもオレとタイシテカワンネエジャナイカヨと思っ て安心したいのである。こっちはそんな馬鹿の心理ぐらい百も承知してい るから、この馬鹿どもに自分達のみにくさを思い知らせ、不愉快にさせる ために電車内ではフランス語(早大学院では第二外語は必修)の単語帳を ひろげることにしている。単語帳をのぞきこんだ馬鹿生徒は顔色を変えて 目をそむける。こっちはそれを見てあざわらう。いいザマだ。人をねたん だバツだ。  今度の事件で、たった一つの、いや二つの、三つの、四つの、いや何千 万の大衆・劣等生の家庭の食卓が私のこの事件と遺書の記事によって一瞬 でも、二瞬でも、三瞬でも気まずく不快な沈黙におおわれれば、またその 沈黙をはらそうとしたわざとらしい笑い声が食卓に響けば、私はこんなに うれしいことはない。そしてそうなることが私にはわかっている。また私 の仲間のエリート枚生が一人でも二人でも − いや私はそれが何人もいる ことを知っている − 何人ものエリート校生がよくやった、よくぞ言った とひそかに会心の笑みをもらしてくれるなら私はしあわせだ。 第三章 祖  母  祖母のみにくさは筆舌につくしがたい。そのみにくさは私への異常に強 い愛情から来ている。つまり私をあまりに愛しているがゆえに私が精神的 に独立し、これまでの幼児期のように自分の言うままにならず自分の影響 範囲から離れていってしまうのがいやなのである。ここまではただいやら しいだけだが、祖母が私の精神的独立を妨害し、自分の支配下におこうと するためのさまざまな工作は、もういやらしいなどという段階を越えてい る。私を自分のところにつなぎとめておこうとして祖母が使う小道具のほ んの一部をあげてみよう。 (1) 薬  祖母は私に薬の入った瓶を与え、毎日、私に「薬は飲んだかい」と聞き にくる。そして、もし私が飲んで、ないなどと言うと異常なまでに怒る。 最近では瓶の中の錠剤の数を数えて、私が薬を飲んでいるかどうかを確か めはじめた。なぜ祖母がこれほどまでに薬に固執するのかというと、祖母 にとってこの「薬」とは祖母と私の間の主従関係を象徴するものだからだ。 つまり、薬は、私が祖母の命令に服従しているということを祖母が確認し、 満足するための手段なのだ。だから私が薬を飲まないということは祖母の 命令に私が従わない、ということにつながり祖母の最も恐れ、憎んでいる、 祖母からの私の精神的独立につながる。そこで祖母は怒り狂うのだ。  このように祖母は多数の小道具を弄して私と祖母との接点を増やし、そ れによって私が祖母に従属しているのを確認し、またそれを私に力ずくで 認めさせようとしているのだ。 (2) 夜食  夜食を祖母は持ってくる。これも私と祖母とのつながりを自分で確認し て満足し、また私にそれを押しつけようとした結果である。さらに、祖母 はこの夜食を必要以上に他の家族(母・妹)に秘密にしようとする。少し 異常なほど細かくくだらないことにまで気を使って秘密にしてみせ るが、これは夜食を秘密にしようというのが本音ではなく、私と祖母の間 に共通の秘密を作ってみせ、それによって、二人だけの特別な世界を作り あげて、二人のつながりの濃さを自分で確認して満足し、私にもそれを認 めさせようというのが本音だというわけだ。「秘密を共有するくらいおま えとアタシとは仲がイインダヨ」と言いたいのだ。いやらしい。夜食なん かで私をつなぎとめておけると思ったら大間違いだ。きさまの心理など、 こっちには手にとるようにわかるのだ。夜食について祖母はまだいやらし い細工をほどこしている。むこうから夜食を持ってこないで、私が空腹に なったと思えるころに顔を出して必ずこう言うようになったのだ。 「夜食はいらないね?」  この言葉は実にいやらしい心理を表している。まず、私がこの問いに対 して「夜食がいる」と答えた時は「夜食はいる?」という問いに対して 「夜食がいる」と答えた時より肯定の意味が強くなるのである。「いらな いね?」の「ない」を打ち消して頼むからである。つまりそれだけ強く祖 母に頼むことになる。祖母はいたく満足する。次に、私が「いらない」と 言った場合は今の逆になって「いるかい?」に対して「いらない」と答え た時よりも否定の意味が弱くなるのである。つまり祖母はそれだけ、断ら れた不快感を味わわなくてすむのだ。なんとまあ手がこんでいることだろ う。まだある。私が夜食を頼むと、それがチョコレート一つであっても祖 母は二十分程しなければ持ってこない。これは、むろん忘れたのではない。 祖母はその二十分の間自分が私に頼まれている、ねだられているという状 態を楽しもうとしているのだ。それだけでなく、私に少しでも長い間、夜 食のことを考えさせて私が今、祖母に何かをねだっている状態だというこ とを思い知らせようとしているのだ。また、少しでも長い間、私に「ねだ ったのに、もらえないおあずけの状態」を味わわせて自分(祖母)が優位 を味わい、私に「おあずけ」の劣位を味わわせようとしているのだ。 (3) 夜のふとんかけ  夜、私の寝室にしのび込み眠っている私にわざと、起こすような大声で こう言いながらふとんをなおす。 「こら。泉ったら駄目だねえ。ふとんをぬいで」または次の日にこう言う。 「きのうまたふとんをはいでたよ。早く大人になってそれぐらい一人でで きるようにならなきゃ駄目じゃないか」つまり私にこういった言葉を言っ てみせることによって「おまえはまだ子供なんだよ。ふとん一つかけられ ない。だからアタシが世話をしてやらなきゃダメなのさ」と私にほのめか してみせ、また自分でも私がまだ子供で、自分の影響下から離れられない のだと、自分自身に思い込ませて安心しようとしているのだ。このいやら しい方法は祖母も半ば無意識に行っているのだろう。表面上は「泉のため を思ってやっているんだよ、あたしゃ」などと言っているが、こっちには すべておみとおしだ、この馬鹿。「泉のため」じゃなく「泉がまだ自分な しではやっていけないのだと自分に思い込ませ、またそれを泉に見せつけ て満足するため」じゃないか。それをなんだ。「大人にならなきゃだめ」 だと。逆じゃないか。おまえは私が「大人でない」ことを自分に納得させ、 私にも見せつけようとして、私が「大人でない」ことを表す証拠を必死で 見つけ出そう、みつからなければ作りだそうとまでしているじゃないか。 祖母が私に何かの命令をしたとする。その私に対する命令はその命令の内 容などはどうでもよく、問題は私がその命令に従うかどうかなのだ。命令 によって私がまだ祖母の影響範囲内にいて、自分(祖母)が私より優位に 立っていると納得し、それを私に誇示したいのだ。言ってみれば命令のた めの命令だ。なにが「泉のためを思って」だ。ふざけるな。  こういういやらしい小細工は二つや三つではない。 (4) 部星のあらさがし  私が学校に行っている間に私の部屋の中をいろいろと探しまわり、人に 見られてはまずいようなノートを見つけ出しその内容をじっくりと読む。 ドアをとざした私独自の空間である私の部屋は祖母にとっては、ともすれ ば自分から離れ自分に対して殻をとざしてしまいそうな私の自我の象徴な のだ。その部屋に無断で入りこみ、中のものをいろいろ見るという行動は 祖母にとっては自分に対して穀をとざしている私の自我の中への侵入を意 味する。つまり私の部屋のドアは祖母から見れは祖母を拒否する私の象徴 で、それを開けて中に入れば、祖母は自分から逃げそうな私の内部へ踏み 込むことになる。祖母は、私をつかまえたと思って満足し安心するのだ。 なんといやらしい心理だろう。しかし本格的にいやらしくなるのはこれか らだ。(1)(2)(3)の例でもそうだったように祖母は自分の優位を確認して 自己満足するだけでなく、私にも「おまえはただの子供さ。おまえは私の 支配下にあるのさ」ということを無理矢理に見せつけ認めさせようとする。 つまり次のような恐ろしい行動に出るのである。帰宅した私に祖母はこう 言う。「ネエ、泉ちゃん。ママに見つかったらあんたが困るものがないか と思って部屋をさがしてあげたら、ホラ、こんなノートがあったヨ。気を つけなきゃ駄目じゃないの。」さてこの言葉を分析してメツタ斬りにして やる。まず祖母は、私に自分(祖母)が私の部屋に入ったこと、そしてあ らさがしをしたこと、秘密のノートをみつけてそれを読んだことを今の言 葉によって伝えたわけだ。これによって祖母は自分が私の自我の象徴であ る私の部屋に入ったことを誇らしげに宣言し、また「ノートの秘密は二人 だけのことだヨ」というニュアンスも含める。これは(2)の「夜食」の時 と同じだ。「ママに見つかると困るものがないかと思って」は云いわけと 同時に、私の母親が、私と祖母「二人の」敵であるというようなニュアン スをただよわす効果もある。実際、私の祖母が私の母に対していだく感情 はとても実の娘に対していだくものとは思えない。祖母は私の母を、私を めぐって対立する女として見ているのだ。実の娘に嫉妬するのである。正 に姑が嫁をにらみつけているのと同じなのである。さてこの「ママに見つ かると−」の第一の役割である「云いわけ」これに最もいやらしい思いが こめられているのである。祖母はこの言葉で本当に私が納得するなどとは 全く思っていない。いや納得されては、祖母が困るのである。自分の優位 を私に誇示できなくなつてしまう。つまりこの言葉は表面上、みせかけの 平和を保つための言葉にすぎないのだ。この言葉によって表面上は私と祖 母はにこやかな顔をしていられるのである。だが私は決してこの言葉を信 じないし、祖母もそのことを知っている。表面はつりあいがとれているも のの心の中では私は「ちくしよう。よくもオレの領域に踏み込みやがった な」と思っており祖母は「どうだい、自分がいない時に部屋に踏み込まれ て、しかも秘密を探りあてられてくやしいだろ、恥かしいだろ。アタシハ アンタニ優越シテルソダヨ」と勝ち誇っているのだ。なんといやらしい、 手のこんだ計略だろう。自分が優位にたちたいため、というより私を劣位 におとしいれるために、こうまで私を恥かしめておきながら私との決定的 衝突を病的に恐れ、表面上の平和を保とうとするそのいやらしさ・きたな らしさはもはや形容する言葉を持たない。表面上の理屈はちゃんと通って いるのだから、もし私が怒ってもその理屈を押し通し、うやむやにしてし まえるのだ。だから私が怒ればかえって祖母の思うツボである。自分(祖 母)が私にそれだけ強い影響を与えたと思って満足するからである。だが ここまでぐじゃぐじゃ考えた祖母も結局は私に負けたのだ。そのみにくい 計略を完璧に暴露され追い詰められたのだから。ざまあみろ。今の、部屋 のあらさがしの縮小版というのもある。祖母は毎晩、何度も私の部屋へや って来るのだが、その時に私がトイレに行っていたりして部屋にいないと、 祖母は私の部屋と隣の祖母の部屋の境にあるドアをわざと開け放したまま 帰って行くのだ。これは「オマエのいない無防備な部屋に入ったんダヨ」 と言いたい、私の自我の象徴である部屋への無断侵入を誇りたいため、ま た祖母の部屋と私の部屋を空間的につなげ、「アタシとアンタはいっしょ なんだよ」と私につきつけてみせるためである。ここまで書くと被害妄想 だと言われるかもしれないが、それならなぜ祖母はドアを開け放すのだ。 私が部屋にいる時はいつもちゃんと閉めていくのに。こういったまわりく どくていやらしい行動に対しては抗議のしようがない。そこで私が普段か ら押えつけていた怒りをたまに爆発させると、祖母はまたもやみにくい反 応を示す。 (5) 私が怒った時 (1) わざとうす笑いを浮べてみせる。これは私が感情を爆発させ真剣 になっている時に、自分は余裕のある態度を示すことによって、自分の心 の中の脅えを隠すだけでなく、逆に自分が私を相手にしていないというよ うなムードをただよわそうとしてこういう態度をとるのである。私が何を 言っても耳をかさず、おまえみたいな子供は相手にできないというような 態度をとる。これによって私の論理的追求を逃れるだけでなく私を見下す ようなムードも作れるのである。 (2) (1)のあとも私がしつこく論理的追求を続けると、突然、態度 をひるかえして怒りだす。この変化がいやらしい。怒るのがいやらしいの ではなく、それまで怒りを隠して余裕のある態度をとっていたということ が明らかになるのがみにくいのである。祖母が怒るとどうなるか。  (1)「おばあちゃまはあなたのためを思って−」などと言う。これは祖 母が常にたてにとる武器である。祖母の本心がこれとはるかに違うという ことはすでに述べたので、ここでは繰り返さない。  (2)「じゃあおじいちゃまのところへ行こう。」最後には必ずこれがと びでる。祖父は一家の長老格で、私が恐れているということを知った上で、 これを言うのである。全然「じゃあ」などではない。突然、全く関係のな い祖父を持ち出すのだ。私が、これは祖父とは全く関係がないのだと説明 しても駄目であり、最後には高一にもなった私を、明治生まれらしい豆タ ンクのような体に全力をこめて私を祖父のところへ連れて行こうとする。 いや連れて行こうとする真似である。私が降参するのを、いまかいまかと 待っているのだ。その証拠にいつか私が本当に怒り狂い、じやあ祖父のと ころへ行ってやるといって祖父の部屋へ行こうとしたら、祖母は私の腕を がっちりと押え「いい加減になさい。」などと全く意味の通じないことを さけび結局は私をひきとめてしまった。さて私としては祖父のところには 行きたくない。祖母のあまりにもこみ入ったいやらしさを論理的に説明で きる自信がなかったし祖母はいざとなれば平気でウソをつく。このみにく さに圧倒され絶望して私はその祖母のウソを自分で認めてしまう。また、 もし祖母のみにくさを論理的に説明したとすると祖母がどんなことをしで かすかわからない。こういったわけで私は祖父のところへ行きたくない。 それを祖母は知りぬいているからこそ私にこれを言うのである。そして私 が祖母のこの要求を拒否すると、なぜか私が間違っているかのようなムー ドになってしまう。祖母はこう言う。「じやあ、あやまりなさい。」私が 何も悪いことをしていないのにである。これは私にあやまらせることによ って、私の激怒にくずされそうになった祖母の優位を私自身に認めさせて 再び私の優位に立とうという計略なのである。私はさからえない。この力 強く恥しらずないやらしさにとても太刀打ちできない。私はあやまってし まう。すると祖母は満足して「じゃあ許してあげる」と言うのである、優 越者の笑みをたたえて。 (6) 「さむい」「あつい」  祖母は必ず毎晩、私の部屋へ来て夏なら「明日は暑いから薄着にしなさ い。」冬なら「明日は寒いから厚着なさい。」と言う。  つまり大げさに「あつい」「さむい」を言うのだが、これにもみにくい 理由がある。「あつい」「さむい」という状況は私に対して服装のことを とやかく命令しやすい状況である。だからいろいろと私に命令するために それはどでもない時に「あつい」「さむい」等と言うのだ。私がこういう 祖母のみにくい心理を読みとってわざと「あつくない」「さむくない」と 言うと祖母は私のこの言葉から自分の権力に対する無言の反抗を感じる。 祖母は「ここでひきさがると負ける」などと思うのだろう。なおさらムキ になって「あつい」「さむい」と言う。なんとみにくい心理だろう。 (7) 私の読書に対しての祖母の反応  私をことさらに子供として扱い、まだ半人前だと思い込みたい祖母は私 の愛読書までもけなすのである。祖母は私が、読書に祖母が入れない独自 の世界を持っているのが気にくわないのである。そこで私の愛読書をむき になってけなす。むきになったかと思うと今度は急に、その本を軽んじた 馬鹿にしたような態度をとったりする。なんとかして私の本を否定しよう という心理がみえみえである。明治生れの祖母と私とでは読書の好みが違 うのは当然である。だが祖母にはそれが気にくわないのである。祖母は私 が祖母と同じようになってほしい、自分と私の自我が重なってはしいと思 っているのだ。それなのに私が祖母の好みからはずれた傾向の読書に自分 の世界を築き始めたのである、頭の堅い祖母には理解できない傾向の続書 に。(私に言わせれば祖母は読書をしているとはとてもいえない。一年に 数冊、昔の作家の小説。それも変に健全な小説ばかりを読むだけである。 それが一人前に、この私に、一年に百何十冊の本を読み何十本という映画 を見るこの私に、小生意気にも説教するとはなにごとだ。)これも祖母に とっては私が祖母の手のとどかないところへ行ってしまうというふうに感 じられるのだ。祖母はそれが不安で憎らしくて、おもしろくなくてたまら ないのである。祖母は最初は私の愛読書を馬鹿にする。つまり自分(祖母) がムキになって批判するほどの本でもないというような顔でその本を軽ん じたいわけだ。それが進むと今度は怒り出して最後には捨てろとまで言い だす。祖母は自分と私との間の障害になるものが憎くてたまらないのであ る。本もこの場合その障害物なのである。なんというみにくい心理だ。最 後には本の作者までを「こんな人、子供だよ」などと言い出す。こうなる ともうとても言葉では言い表わせない汚ならしさである。 (8) 性  思春期になれば第二次性徴が起こるということを祖母は当然知っている。 祖母はこれが気にいらないのである。子供だ、子供だと思い込もうとして いるのに、私が少なくとも体は一人前の男性になっていく。自分の手のと どかない男性の世界へ入ってしまう。祖母はこう考えて不安に身をよじる。 こういう祖母が一体どういう行動に出るかというとこれはもはや狂気であ る。祖母は私の他の世界までも一緒について来ようとする。風呂場をのぞ きにくるのだ!もし私がこういったことを祖母が意識してやっているのだ、 などと言えばそれは被害妄想かもしれないが私はそうは言っていない。祖 母は無意識のうちにこういったことを行っているのだ。人間の精神という のは都合よくできていて自分で認めたくないような考えはみな無意識の世 界へ抑圧してしまうのである。無意識だからと言って手加減してはいけな い。無意識と失神は違う。無意識と意識は表裏一体だ。つまり結論を言え ば祖母はいやらしい人間だということだ。 (9) 私の暴力的発作に対する反応  暴力的発作とは私が本を破ることである。なぜこんなことをするかとい うとさっき書いたような祖母の、本に対する憎悪のあまりの激しさ、みに くさに絶望し、やけになって本を破るのである。自分の大切な本を破るの は実につらく、悲しいことだ。だが、それを私にさせるはど祖母のいやら しさはすさまじかった。最初のうちは隠れて本を破いていたのだが、その うち祖母の目の前で破くようになった。この時の祖母の反応が実にいやら しい。まったく私のこの行動を相手にしないで無視するのである。この心 理を分析してみよう。まず、この事態にまともにとりあえば、騒ぎはます ます大きくなるに違いないと思って祖母は私の発作を無視するのだという ことが言えるが、それだけではない。本を破ってみせるというのは祖母の みにくさにギリギリまで追いつめられた私の屈折した形での抗議である。 だが祖母がそれを無視することによって抗議は抗議でなくなり、それどこ ろか逆に祖母が憎む本を私自身で破ったというだけのことになってしまう のだ。緒局、私が馬鹿な目にあうだけなのだ。それを知っているからこそ 祖母は無視するのだ。なんという狡猾でいやらしい計略だろう。 (10) 昼食代  私は昼食を学院の食堂でとる。私は一日五百円の割合で祖母から昼食代 をうけとっている。これもはじめは母からもらっていたのだが祖母がその 役目を横取りしてしまったのである。祖母は私に金を払うという行為によ って自分の優位を確認しようとしたのだ。昼食代は十日に五千円ずつもら うのだが祖母は支払いの日が来ても金を渡してくれない。一日は遅らせる。 わざとである。夜食の場合と同じで私に「おあずけ」状態を味わわせ、自 分の優位を誇示して満足したいのである。または私に頼ませる、頭を下げ させるためにわざと遅らせるのである。そして少しでも私が祖母に反抗的 な言動をとろうものなら、すかさず「じゃあこれからお昼ごはん代あげな、 よ。」と、こうである。それどころか、いいか、よく聞いてほしい、いや 読んでほしいのだが、祖母は私にこんなことまで言うのである。「あんた のお母さんはね、今、離婚したあとでお金がないんだからね。そしてあん たが今言ったようなこと、おじいちゃまに言ったらおじいちゃま怒ってお 金だしてくれなくなるよ。あんたの家は今貧乏なんだからそうなったら困 るよ」  どうであろう。「あんたのお母さん」とは祖母の実の娘である。なんと いう悪意であろうか。そしてこの「あんたのお母さん」という呼び方の中 にも祖母の自分の娘に対する静かな敵意が表れてしるではないか。「あん たのおじいちゃま(つまり祖母の夫)お金出してくれなくなるよ」と、い う言葉は自分が私に金を出さないと言うのはあまりにきつすぎると思った 祖母が祖父に責任を転嫁しようとした言葉である。「あんたの家は、今、 貧乏なんだからね」この言葉は冗談でもなんでもなく、真剣にしかもコソ コソとした調子で語られる。貧乏は私の母が勝気な女独特のいやらしい自 尊心で、金持の祖父(つまり母の父親)の援助を受けないのが悪いのだが、 とこかく母が実の娘の家庭に対して言う言葉とは思えない。私を束縛する 最後の手段としてついに財産を持ち出してきたのだ。 (11) その他  祖母は私を束縛しようとして出した命令、あるいは提案が私に拒否され ると次のような反応を示す。最初の命令とは全く関係がなく、そして反対 の余地がないような簡単な命令をするのである。つまり私が祖母の命令に 逆らったのがおもしろくないので、断りようのない命令い私を従わせてそ の不快感をうめあわせようとするのだ。このくそばばあめ。今に地獄へ叩 き込んでやるからそう思え!きさまあと数日の命だ。  私は部屋の位置関係上、母より祖母に多く口をきく。すると私としゃべ ったあとで祖母は私に隠れてこっそりと一階をまわって母のところへ行き、 泉ちゃんがこうこうしゃべったと母に言う。これは母と祖母の仲が良いか らではなく、祖母が私をめぐって対立する一人の女として敵視している私 の母に対して、こういうことをしゃべることによって「どうだい、知らな いだろ。泉はアンタにしゃべらないことも私にはしゃべるんだよ。どうだ い、くやしいダロ」と母に自分の優位を誇示しようとしているのである。  とにかくいろいろと書いてきたが、ここまで祖母の言葉の一語一句まで あげつらい、みにくさをひき出して言葉にするというのは、並たいていの 仕事ではなかった。非常に頭を使うつらい仕事だった。だが私は憎悪のカ でそれを耐えぬいた。祖母が私を支配しよう、優位にたとうとするのは憎 悪ではなく異常に強く、そしてゆがんだ愛情からである。だからこそベタ ベタとしてかえっていやらしいのである。孫に対する愛情などというもの から、はるかにかけ離れた愛情だ。男に対する女の愛情、色情狂の女の愛 情である。もはや異常だ。私がもし生きていて祖母も生きていたとしたら 一体、どうなるであろうか。祖母は私の一生を束縛しようとするにちがい ない。すでに早大の、どの学部に私が進学するかも祖母によってきめられ かけている。そしてこういう女はみにくい執念で長生きしやがるにちがい ないから私が就職する会社も祖母によって決められる。幼ないころから祖 母に従わせられている私は祖母に反対できないのである。祖母のあまりの みにくさに圧倒され絶望してしまうのである。だがここまではともかくと しても私が結婚する時まであの祖母がハイエナのようにしつこく生き残っ ていたとしたらどうであろう。私に対して異常な(もはや変態といってよ いだろう)変態的愛情を持っている祖母は私の妻をことあるごとに迫害し いじめぬくにちがいない。私にはそれがたまらない。未来の妻が可哀想で 今から涙がでるほどである。ここまでくると私もいささか異常の誹りをま ぬがれないが、異常な祖母に対するには私も異常にならざるを得なかった。 グランドマザー・コンプレックスとでも言おうか。とにかく祖母がいかに みにくいかということは、この文を読んだ人にはかなり伝わるはずである。 だがそれでさえも祖母と日々むかい合っている私がみせつけられるみにく さの半分程度でしかない。 第三章 母  私の母についてはそれほど苦労しないで論を進めることができる。と言 うのも、私の母の心理は祖母のそれのように妙に屈折したりしていないか らである。単純と言ってもいいのだが、単純を言いきる前に言っておかな いといけないことがある。つまり母は単に単純なのではなく、単純、すな わち感情を隠さずにそのまま外に出すのが正々堂々としていてよいことだ と思っているがゆえに、意識して単純にふるまい、感情を外に出している ようなふしがほのみえるのである。母は私の祖父母に育てられたわけで、 まあ良家のお嬢さんとして育ったわけだ。だが祖母は私に対してしたよう な束縛を母にはしなかったらしく、母はわがままに育ってきた。だから女 にしてはたいへん勝気である。男勝りと言ってよい。勝気という性格があ まりに強いので、普通お嬢さんとして育てられた女性が多かれ少なかれ持 っているはずの「たおやかさ」とでも言うべきものが母には全くない。勝 気。母のいやらしさはこの一語に集約される。勝気で、誰にも遠慮するこ となく育ってきたから自分の感情を奥にしまってひきさがる、というよう なことが全くない。常に自分の考えを堂々と述べたてて、決して物怖じし たりしない。これはたいへん結構なことであるが、それが女性でしかもそ れがあまりに極端だと実に不快なものである。女性の美点の一つである慎 み深さというものが全くない。こういうことを書くとウーマン・リブの連 中がどうこう言うかもしれない。私はこのウーマン・リブというもののお かしさ・みにくさを論破できるが、こでそれを書くと長くなるし本題から それてしまうのでごかんべん願いたい。  さて勝気でわがままで感情をすぐ外に出す母は自分のその性格を正当化 する。すなわち夏目漱石の「坊っちゃん」気取りである。感情を外に出す のがいいことだと思い込んで得意になるわけだ。こういう女は男を相手に しても決してひるまない。男なんかに負けてたまるかという心理、これを 心理学用語でペニス願望というのだそうだが、とにかく母は本当に勝気で 堂々としている。  これは別に悪いことではないのだが、ある種の人間、すなわち私のよう に神経質な人間から見ると、その堂々とした厚かましさが実に無神経にみ えてたまらないのである。こういう勝気な性格の人間は、その人がそこに 存在しているというだけで神経質人間に無言の暴力をふるっているのだ。 神経質人間はこういう人間とまともにわたりあえないのである。だが相手 はどんどん自分の感情・考えを恥かしげもなくさらけ出してくる。こちら はそのエネルギーに圧倒されて何も言えでない。むこうは議論なり説得な りに勝って得意になる。あるいは、神経質人間の存在こよって逆に勝気人 間は自分の厚かましさ、無神経さを無言のうちに指摘されているようこ感 じて怒り出す。「なんだ。うじうじしやがって」などと言う。神経質人間 が自殺した時に「力強い大衆」の示す反感、拒否反応はこういう心理に基 づいているのである。何度も言うが、勝気人間は感情を生のままさらけ出 す。母ももちろんそうである。これは、変に自分の感情を隠した陰湿な祖 母のいやらしさとは正反対の、しかし同じくらい強烈ないやらしさである。 母は怒るとそれをむき出しこする。感情をさらけ出すとは、精神的に裸に なることだ。それに対する羞恥心というものが母こは全くない。その無神 経さ。愚鈍さが私をたまらなくいらだたせる。たとえば私が部屋のドアを 閉めきっているとする。祖母なら私の部屋にやって来て、帰る時にわざと ドアをあけていくというような反感の示し方をする。母はこうだ。突然、 ドアを音高く開けて叫ぶ。「開けといたっていいでしよ。家族なんだから。 」すなわち反感むきだし。自分が私の部屋のドアによって拒絶されたのが この勝ち気な女にはおもしろくなかったのだ。また私が少しでも母に反抗 的言動を見せると母は祖母のように手のこんだ方法を使わず、突然、部屋 にかけこんできて怒鳴る。反感まるだし、感情むきだしの野蛮ないやらし さである。しかも母はそれがよいことだと思っているのでもうどうしよう もない。母も自分の感情を抑制しようとすることがある。だが母はそんな ことに慣れていないので私には母が不快感を押さえているなとすぐわかる。 母のそんな無神経さと言うか、織細さのなさというか、とにかく感情一つ 抑制できない女の厚かましさが私を気も狂わんばかりにいらだたせる。し かも母はすぐ爆発してしまう。すると、これまでおさえていた時に母の中 でくすぷっていたものが一挙にふき出してくるので、あの時、あんな顔を していた時、心の中ではやっぱりこう思っていたのだということがわかっ て私はそのいやらしさにぞっとする。  母は、仕事で何か気にいらないことがあるとすぐ相手に、それがたとえ 上役であっても文句を言う。そしてそのこと、上役にむかって平気で不満 を言うことがまるでいいことのように、私に自慢したりする。ふざけるな。  なにか不平不満があるとすぐにそれを解決しようとして動き出す勝気な 力強さのいやらしさ。自分の権利を正々堂々と主張する力強さのいやらし さ。 離婚もそうだ。ちよっと不快になるとすぐその状況を脱け出そうと して離婚である。あの程度の不仲の夫婦など世間にはいくらでもいる。そ の人達は不快をがまんしているのだ。ところが私の母は違う。生意気にも その不快な状況から脱け出そうとしやがったのだ。この事は母の、自分一 人でもやって行けるという、お嬢さん育ち特有の世間知らずの勝気さ、不 愉快になれていないわがまま育ち特有の、不愉快からすぐに脱け出そうと するいやらしい力強さを実に見事に表している。離婚したあと、母が自分 の父、つまり私の祖父からの金銭的援助を受けないのも同じである。これ を男がやるなら立派だが女が男ぷっていい気になってやるとそのいやらし さは筆舌につくしがたいものになる。  母のみにくさは母の機嫌が良い時にも表れる。すなわち自分の喜びの感 情をすぐに外に出して子供のようにはしゃぐ。この元気のよさは本物の苦 労を味わったことのないお嬢さん育ち特有の健全さだ。この健全さも私の ように神経質で不健全な人間にとってぞっとするほど疳にさわる。  母の言う冗談の健全ないやらしさ。私が普段しゃべり散らしていること の不健全な壮快さと正反対である。しかも母は自分の喜びを無理矢理、人 に押しつけ、人が自分と同じように喜ばないとお嬢さん特有のわがままで 怒る。「おまえなにひねくれてんのサ!」などと叫ぶ。殺してやる。  もう書くことがなくなってしまった。これは、祖母の時は、その手のこ んだ計略を一つずつ、突きくずしていくのに枚数をとったのだが、母の時 は単純のいやらしさ、勝気のいやらしさということでそれほど書くことが なかったからである。そして母がそのいやらしさからへんな小細工は「男 らしくない」からいやだと思い込み、それを信念としているため、小細工 が私に対してしかけられなかったということも一因である。だがこれもい やらしい。なぜなら「小細工しない」という信念由体が母のみにくい部分 から出てきたものである以上、母に関して見れば、祖母とは逆に「小細工 をしない」ことがいやらしいのである。  力強さのいやらしさということはわかる人にはわかるが、わからない人 にはわからないだろう。あるいは心の底ではわかっているのにそれを認め ないという馬鹿もいるだろう。とにかくこの力強さのいやらしさは力強い ということが悪でないだけに実に表現しにくい。また力強いということが 悪でないからこそ、このいやらしさはなおさらいやらしくなるのだとも言 えよう。  すぐはしゃぎ、すぐ怒り、すぐ悲しみ、その感情を何の屈折もなく外に 出してくる単純さ、愚鈍なまでの健全さ。こういういやらしさは誰かの手 でひねりつぶさなければいけない。さてこれまでに、私は祖母の持ってま わった陰湿ないやらしさと母のカ強く無神経ないやらしさに攻められてい るということを書いた。だが話はまだ終りにならない。妹がまだ残ってい る。 第四章 妹  まことに残念なことだが、珠のみにくさについての分析は省略せざるを 得なくなった。その理由を書こう。 1 妹のみにくさは、私に対するねたみからでている。祖母が私ばかりを かまって妹を全く無視するのが妹はいやでたまらないのだ。さてこの妹の ねたみは極めて激しい。幼いころから差別されて育ったためである。この ひねこびれた心理を論理的に書き表すのは、とてもこれまでのような調子 にはいかない。どうしても心理学を勉強しなければならないのだ。 2 計画実行の日は、二月十日、十一日、十二日の連休の予定だったが、 私はとてもそれまで待ち続けられなくなってしまった。そこで一月十三日、 十四日、十五日に決行することにした。そのため妹を分析するだけの時間 がとれなくなってしまった。 3 私にとって大切なのは第二章であって、あとはそれはど重要ではない と思いはじめた。 というわけで妹のことは書かないことにした。だがこれだけは書いておき たい。妹の私に対するねたみはやや異常であった。こう書くとまた人々は パラノイアだとかなんだとか言うかもしれないが、ここまで私の文を読ん でくれた人なら私の言うことが、単なる被害妄想などではなく、しっかり した論理的基盤の上に成り立っているものだということをわかってくれる だろうから、このことも信じてもらえると思う。 第五章 最近ふえはじめた青少年の自殺について  いままで私が書いてきたような大衆・家族のいやらしさから出た計略は 彼等が意識して論理的に組み立てたものではなく、半ば無意識的に、すな わち感覚的に考え出したものだ。そしてそのいやらしさを感じる側も論理 的に分析して、いやらしいと思うのではなく、無意識的・直感的にいやら しいと感じる。感覚から感覚へ、である。だからこのいやらしさを言葉、 すなわち論理で表すのは実にむつかしい。感覚的・直感的に生み出された 計略・行動が実に複雑な構造を持っているからだ。そういうわけで「ムシ がすかない」などというような言葉もできたのである。論理では表せない が感覚的にいやだというわけだ。ちかごろ原因不明、あるいはちょっとし た出来事(たとえばテレビをみるのを禁じられたなどという事)から自殺 する若者が多いが、これは最近の若者の大きな特徴であるナイーブさが、 私がこれまで述べてきたような大人のいやらしさを敏感に感じとり、それ に精神を圧迫され、しかもその腹立たしさを表現することができないとい うことから来たやりきれなさが加わって、非常に痛めつけられていた精神 がその小さな出来事によってついに忍耐の限界をこえた結果に生じたもの だと考えられないだろうか。そう考えると最近の自殺に遺書が少ないとい うことの説明もつく。遺書を書かないのではなく書けないのである。自分 でもはっきりした自殺の理由がわかっていないのではないか。私は憎悪に ささえられてなんとか大衆のみにくさを表現した。「なんとか」でこれだ けの量になったのである。遺書が少なくなるのもうなずけるではないか。 私はどうしても自分だけの力でこれだけのものを書いたのだという気がし ない。愚鈍な大衆の無神経さに押しつぶされて死んでいった神経質な人間 の霊が地獄の底からはいあがってきて私に力を与えてくれたような気がし てならない。あの開成高生をはじめとするこういう人達の復讐のためにも、 私は低能な大衆を一人でも多く殺さなければならない。 第六章  これまでいろいろ書いてきたが馬鹿な大衆はこういうことは無視し、す ぐ忘れてしまうだろう。だが果たしてそれがなんであろうか。開成高生事 件また私の事件が忘れられたあとも、この受験地獄・学歴地獄はまだまだ 続く。永遠に続く。大衆の馬鹿め。おまえらはこれから受験地獄にさんざ ん苦しめられるのだ。ざまあみろ。エリートをねたんだ罰だ。さあ苦しめ! エリートを迫害した罪だ!さあ苦しめ! あとがき 朝日・読売・毎日新聞の方々へ  まず取材のことですが、インタビューすれば友人は私がこの犯罪の計画 を十一月からたてていたこと等を証言してくれるでしょう。私が冗談めか して彼等にふれ歩いたのです。次に私の顔写真を付録につけておきました。 事件のイメージを大衆にはっきりと植え付け、私への憎しみをより確固な ものにするのに役立つはずです。  なおこの遺書を書くのに、日本のある小説家の文体を借用させていただ きました。教養のある三大新聞社の記者のことですからすでにお気づきか もしれません。その小説家の文体は論理的にものごとを述べようとする時 に非常に効果的なのです。この小説家の方にはお礼の手紙を書きました。  それから、私の祖父母の財産はなるべく焼き捨てることになっておりま す。私がその在処を知っている貯金通帳・証券類だけでどんなに少なくて も数千万、多ければ一億以上になるはずです。大衆はこの話だけでも少な からず不愉快になるはずです。  それではエリート記者の皆さん、思いきり私をけなす記事を書いて下さ い。ではさようなら。   一九七六年一月十日 水曜 夜十一時           朝 倉  泉