第二章 (3)/9
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さて不良のことに話をもどそう。彼らは社会に適応しているまともな人
間がねたましくてたまらない。そこでまともな人間にからむのだ。そして
彼等がおびえる様を見て自分の劣等感を解消して得意になる。また暴走族
の馬鹿どもは特に始末におえない。彼等は変に「スピード」ということを
美化してみせる。「オレたちにとってスピードが青春だ」などと言ったり
する。これは、「スピード」を美化することによって自分達が負け犬だと
いう考えから逃げだせるからこういうことを言うのである。プロの選手な
らとにかく運転テクニックも稚拙な暴走族風情が、なにが「スピードこそ
オレの人生」だ。馬鹿もほどほどにしていただきたい。こんなことを言う
ことによって自分達がなにやら崇高なことにうちこんでいるようなつもり
になって満足したいのかもしれないがいくら言葉をひねくりまわしてもオ
ートバイなど単なる欲求不満のはけロにすぎない。現実逃避だ。
大衆は自分達の手にとどかないものを批判して自分を納得させようとい
ろいろ理屈をこねくりまわすのだが、いざ希望が出てくるとこの連中はこ
れまでのポーズをあっという問に捨てて、あさましく走り出すからいやら
しい。例をとれば「知的生活の方法」という本がベストセラーになったと
いうことがある。この本が有名になる前に「私は知的生活をしたい」など
と言えば「キザな」と言われたろう。本当は大衆も「知的」なことをやっ
て自分がいかにも高級な人間になったような気持ちを味わいたいのだが、
自分がまったく「知的」でないことを知ると今度は「知的」なことをけな
しはじめる。「知的」な人を攻撃しはじめる。たとえば、
「キザだ」
「おたかくとまってる」
「つんつんしやがって」
「かっこつけてやがる」
などなどである。「かっこつけてる」などと言つている以上自分でもその
ことが「かっこいい」と認めていることになるのだがとにかく大衆は「知
性」が気にくわないので、けなす。このあたり、アホ生徒が秀才に「点取
り虫」などと言うのと全く同じである。通俗テレビドラマでも大衆受けを
ねらつて大学教授といえば大きな屋敷に住んで、冷たい顔をしている悪役
になってしまう。これを見て大衆は「頭のいい大学教授なんて人間は悪い
やつなのさ」などと思って満足するのである。それやこれやで大衆の間で
「知性」「知的」などという言葉は一種のタブーになってしまっている。
その時に「知的生活の方法」とくる。大衆はすこしおどろく。つまり、タ
ブーを破られた快いおどろきとでも言おうか。そしてペ−ジをめくってみ
ると「あなたにも知的生活ができる」などということが書いてある。これ
までムキになって「知性」を否定してきたのは自分の手のとどかないとこ
ろにある「知性」に対する強いあこがれを抑圧するためだったと言える。
そのあこがれ、必死で抑えてきたあこがれをこの言葉が快く刺激した。
「そうだ!私にも・・・私にも知的生活はできるんだ」というわけだ。
「知的生活の方法」のヒットには多分にこの大衆のみにくい心理に負うと
こちが大きい。今度の事件も私が名門校生であるだけでなく学者一家の一
員と知って、大衆は「知的家庭」への反感から、「いくら頭よくたってた
だのキチガイさ。」などと言おうとするかもしれない。
「正(まさ)ちゃん、よかったね。学院の試験に受からなくて。こんなキ
チガイのいる学校なんか行かないですんでよかったよ」などと言って学院
の入試に落ちた生徒の母親は自分達を必死でなぐさめようとするだろう。
また学院に手もとどかない劣等生達もそれみたことかというような顔つき
で得意になって言うだろう。「勉強ができるからってなんだ。ただのキチ
ガイじゃないか」いくら理屈をこねまわしてみてもねたみはねたみ、優越
者は優越者、劣等人間は劣等人間である。勉強の面での自分達の劣等を素
直に認めればよいのだ。それを、勉強が社会的地位とつながっているもの
だから妙にひねくれ「勉強だけが人生じゃない。」などと理屈をこねるか
らみにくいのだ。勉強だけが人生じゃないなどというのはあたりまえのこ
とだ。そのあたりまえのことを持ち出してくることからして嫉妬の臭いが
プンプンである。勉強のできぬ者ができる者に、その人間が勉強ができる
ことについての批判のようなことを言った場合、その批判がいかに正しく
てもそれは「頭が良くても人間として駄目ならそいつは駄目だ」という言
葉は、あまりにも大衆の中にしみ込んでしまいもはや慣用句のようになっ
ているから、なんの批判もなく大衆はこの言葉が正しいと信じているよう
だが、実はこの言葉にも実に汚ならしいねたみが含まれているのだ。この
言葉の「人間として」という部分を考えてみると、これは「やさしさ」と
か「心のあたたかさ」その他のことを表しているのだろうが、すると「頭
のよさ」は「人間として良い」ことに入らないのだろうか。さらに「頭の
良さ」より「心のあたたかさ」のほうが尊いなどと無条件に決めつけるの
はおかしい。これは両方とも同次元、人間の長所という点で同次元ではな
いか。少し考えればこれくらいすぐにわかる。それなのに大衆が無条件に
この言葉を受け入れたのは、この言葉が彼等のエリートすなわち頭のよい
人間に対するねたみを正当な批判のようにみせかけてエリートにぷつける
ことができる言葉だからだ。「頭の良さ」より「心のあたたかさ」が尊い
と思い込むのは「心のあたたかさ」ほ「頭のよさ」とちがって大衆に劣等
感をおこさせないものだからである。自分に劣等感を起こさせるものより
起こさせないもののほうが価値があると主張するこの言葉が馬鹿な大衆に
は耳ざわりが良かったのだ。この言葉は大多数大衆が、自分達の気にくわ
ないエリートを「人間としてだめだ」ときめつけ、うさをはらす時に使う
ことができる。そういうわけで大衆は喜んで、この言葉を使い始め、つい
には、それがまるで真理であるかのような錯覚に自らおちいってしまった。
この言葉一つでエリートからの劣等感から解放されその上にねたましいエ
リートをわけ知り顔で批判できるのだ。「顔より心」などという言葉もま
るで同じ。女性の「容姿」と「心」は絶対にどちらのほうが価値が上と決
めることはできない。それをいとも無雑作に「心」に軍配をあげたこの言
葉がもてはやされたのは大多数の女性が不美人だからである。「内面」の
ほうが「外面」より価値があるというもはや固定観念のようになってしま
っている考えはよく考えると、外面が劣る人間が外面の美しい人間に対し
て持ったねたみから来ていることがわかる。外面の優劣はすぐにつくが
「内面」はそう簡単に優劣がつかないのである。そこで外面が劣る者は
「内面」をたてにとり自分達の劣等感をはらそうとするのだが、そういう
彼等の「内面」は外面が美しい者へのねたみにこりかたまっていて彼等の
外面以上に汚ならしいのである。
あらゆる難誌・TV番組は大衆に受け入れられるかどうかが命のわかれ
めだ。そして大衆はこれまで述べてきたように勉強についてだけでなく、
すべての面にわたって、優越者へのねたみにこりかたまっているみにくい
存在だ。この大衆に受け入れられるためには、雑誌・TV番組は大衆にあ
わせてみにくい低次元に堕ちねばならない。すなわちある種のショー番組
等に象徴されるように大衆の手のとどかないところにある存在をこきおろ
して大衆を満足させたり、あるいは歌手に与える賞でも、会場の若い観客
に一般審査員などと称して、その賞をどの歌手に与えるかの決定権を握ら
せ、普段は彼等、普通の若者には手のとどかない存在である同年代の歌手
に対する優越感をいだかせて満足させたりするような実にいやらしい方向
へと進んで行く。雑誌でも同じ。ある種の、というより全部の女性向雑誌
のいやらしさは、そのまま女性のいやらしさに直結する。
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