第二章 (4)/9
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さてまた話を変えよう。どうもあっちこっち話がとんで申しわけない。
まあ今、これを読んでいるのが馬鹿な劣等生とか、そういうどうでもいい
ような人間ならこんなことを書く必要はないのだが、尊敬に価するような
人が読んで下さっているのかもしれないので書いたのである。さて、こん
な話がある。ある小学生が必死に努力して勉強ができるようになった。だ
が他の生徒も努力したため彼の成績は上らなかった。彼は成績が上ると期
待していたが上っていないのを見て泣き出し、その後グレてしまった。こ
の話を聞いて大衆がどう言うかというと「かわいそうに。結果より努力で
成績をつければいいんだ。」こうである。この「結果より努力が大事」と
いう言葉はこの小学生に対する同情というよりも、自分達大衆が努力して
も手のとどかないエリートヘの無意識的な攻撃のあらわれである。前の
「頭が良くても云々」と全く同じ発想だ。結果で負けたのを「努力したの
だから」と言って挫折感を減らそうとするばかりかその「努力」のほうに
価値があるように言って自分を満足させようというわけでこれは心理学で
いう「合理化」である。この言葉ができる前は大衆は当然のように「結果」
を重視していただろう。そこに「結果より努力」という言葉が出てくる。
大衆は馬鹿だから自分達の常識がちょっとだけくつがえされていると、さ
すが論理的だ、などと思って喜ぶ。大衆は一見、理屈に反するようなもの
を論理的で高級だと感じるのである。その上に自分達がこれまで「結果」
の勝利に対していだいていたあきらめの念をふき飛ばし、自分達大衆に味
方してくれそうなこの言葉に、これだ、と思って飛びついたのである。い
まではなにやら真理のように思われているこの言葉ももとをただせばこん
なものである。「思いあがるな」「うぬぼれるな」「のぼせ上るな」これ
らの言葉も同じ理由でできた言葉で、よくみればみんな嫉妬の感情が含ま
れている言葉である。ところが、ここがまた大衆のいやらしいところであ
るが、大衆はこれらの言葉を多用することによってこの言葉からねたみの
ニュアンスを消してしまったのである。かくして誰もが、自分のねたみを
認めることなしに、ねたむ相手を公然とけなすことができる言葉が誕生す
る。完全に立場が上の人間が下の人間に向って使場合を除いて、これらの
言葉が使われるところ常に嫉妬あり、である。
大衆のみにくい嫉妬はいくらでもみつかる。たとえば美人とブスの関係
である。また同性タレントに対する嫉妬もひどい。特に女の場合はすさま
じい。まさに嫉妬心がむきだしである。これは自己顕示欲が特に女性に強
いということに関係があるのだろう。歌謡曲の女性歌手に女性ファンはほ
とんどいないのに対して女性フォーク歌手には女性ファンが多いのもうな
ずける。なぜならば、フォーク歌手は歌唱カがその歌手の価値判断の基準
になるため容貌・スタイルがそれほど問題にされないからである。女性フ
ォーク歌手に対してなら女性達はそれほど劣等感を刺激されないのだ。そ
れに対して歌謡曲の女性歌手は正に容貌・スタイル中心だ。不美人の女性
達は女性歌手の肢体からあふれでる女性の魅力がねたましくてならないの
である。さらにあとで述べる馬鹿な人間特有の変な「深刻好み」「苦悩好
み」「悲愴好み」からフォークがなにか高級なもので、歌謡曲はフォーク
より幼椎だ、というようなムードがなんとなく若者の間にただよっている
ためフォーク・ファンの女性達は容貌・スタイルともに自分達とはくらべ
ものにならないほどすばらしい歌謡曲歌手に対して「歌謡曲なんて幼稚よ」
という態度をとって、自分達の劣等感をうめあわすことができるのである。
しかも自分は女性フォーク歌手は認めるが、女性歌謡曲歌手は認めないと
いう態度は、(すなわちこちらは認めるがあちらは認めないというような
態度は)いかにも自分がはっきりとした価値判断の基準を持っているよう
でえらくみえるし、こちらの女性歌手は認めてるんだから自分は女性歌手
に対して嫉妬なんかしていないのよ、というような言いわけにもなるので
ある。なんとみにくい不美人のひがみ板性であろうか。嫉妬するだけでも
充分いやらしいのに、そういう自分、嫉妬した自分を恥じるどころかその
嫉妬を正当化し、嫉妬の対象を攻撃するとは一体、どういう精神なのだ。
ここまでいやらしくなってくるとちょっと言葉が出てこない。
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