第二章 (6)/9
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さてこれまで大衆・劣等生達の嫉妬にまみれた心理を書いてきたのだが
今度は大衆の変な深刻好み・悲愴好み・苦悩好みの心理のいやらしさを書
こう。大衆は深刻さ、ことに「義務の探刻さ」を好む。そして厳粛な顔を
したがる。「青春の苦悩」「失恋の悲しみ」をうたったフォークソングが
若者に受けるのもそのためだし、原爆と全く関係のない若者が「我々はあ
の惨劇をくり返してはいけない、決して!」などと倒置法を使って悲痛ぶ
ってみせるのもこのため。これは、原爆をダシに使っているのだと言える。
さらに言えば悲劇の存在もこういった心理に負うものである。「悲しい」
のはいやな感情のはずだが、ではなぜ人々は悲劇を見に行くのか。悲しみ
たいからである。映画館の中で悲痛な顔でかぶりをふりながら涙をだらだ
らと流してみたいのである。この気持ちには一種の自己愛に通じるものが
あり自己愛旺盛な女性が悲劇を好む理由もこれで納得できる。誰かが自殺
したと聞けば、そらきたとばかりに「我々は生き続けねばならない・・・・
どんなに・・・・どんなに苦しいことがあっても!」等と倒置法を使って
言う。これは「義務の深刻」の快感である。また自殺者について「甘えて
たのだアイツは」とか自殺はヒキョウだ」だの「アイツは悲劇の主人公の
つもりだったのだ」だの言うのも妙に厳しい態度をとって深刻ぶりたいか
らである。自殺者をダシに使って自分達は「深刻の快感」にひたろうとし
ているのだ。なにが「悲劇の主人公のつもり」だ。そういう人々はおおか
たなにがなんでも生きていくぞ式映画か深刻大悲痛反戦映画の主人公のつ
もりなのだろう。「あえて、いばらの道を行く」だの「青春は苦しい。だ
けど生きるんだ!」等という言葉もみなこのたぐい。「あえていばらの道
を行く」などと言って、まるで安易でない道を進んで行くようなムードだ
が実はこいつらは深刻さの快感に安易にひたりきっているにすぎないのだ。
「青春は苦しいけど、生きるんだ!」も同じで、別に青春とは苦しいもの
ではない。何世代か前の人は戦争やらなにやらで苦しかったのだろうが今
は生活にはなんの不自由もなかったはずだし、精神面のことを考えてみて
も今の若者が苦しんでいるなどとはとても考えられない。こいつらはただ
深刻ぶりたがって苦しくもない青春を苦しいなどと言ってイキがっている
にすぎないのだ。ただそれだけのことなのに馬鹿な若者どもはそれが妙に
高級であるかのごとく取りちがえ、妙に悲痛をきどった、言ってみれは
「苦悩フォークソング」などというものを歌って深刻ぶってそれがかっこ
いいと思っているのだから全く救いがない。大人がフォークソソグを馬鹿
にすると「古いなあ」などと言うが、この馬鹿め、それではきさまらの言
う「新しい」ものとはなんだ。つまり「馬鹿な」ものではないか。極めて
安易な感情に安易にひたりこんで、そしてそれがいいことだと思っている。
そして馬鹿は馬鹿同志、うじ虫のように群れつどって安易な感情に対する
陶酔を「フィーリング」などとぬかして得意になっていやがるのだ。そう
いう自分達の馬鹿なところを指摘されても恥入るどころか「古いなあ」
「馬鹿にゃわからねえよ」「点取り虫になにがわかるか」などと言う。な
にが「なにがわかるか」だ。カラッポのきさまら低能の頭の中の何を「わ
か」れというのだ。なにもないじゃないか。あるとしたらみにくい嫉妬と
劣等感が転化した変なきどりだけじゃないか。そんなものが「わか」って
たまるか。
ただな、こういうふうにきさまら馬鹿の心理を理解することはできるん
だぜ。でもそれはおまえらの言う「わかる」とはちがうだろう。おまえら
の言う「わかる」とは、つまり「共感できる」という意味なのだ。この低
能めが。きさまらの嫉妬や劣等感にエリートが共感できてたまるか。深夜
放送だのなんだのでおまえら好みの番組をやるもんで調子にのってるんだ
ろうが、マスコミとてもただの商売だ。人気がとれなきゃそれまでだ。だ
からきさまら馬鹿のごきげんをとりむすぶような馬鹿番組だけやるのだ。
それに乗せられて調子づきやがって、馬鹿が。
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